境内案内

寛永十九年、三代将軍・徳川家光が再建
家光が寄付した七千両(約二十一億円)で、本殿、拝殿、高舞殿など今も残る十五棟の社殿と石橋、石鳥居が建築・造営された。これらは国の重要文化財に指定されている。
社殿
*和様と唐様を混用した独自の「南宮造」
石橋・石鳥居
*人間は通れない 神の橋「石輪橋」

門の正面が石輪橋。花崗岩で造られ、その名の通り輪のように円弧を描いている。この形は、そり橋とも呼ばれ、神様が通られる橋、つまり人間は通ってはいけない橋を意味している。

この橋は、石輪橋と違って、人が参拝の行き帰りにわたる橋。五月五日の例大祭で、おみこしが下向する際に渡ることから下向橋とも呼ばれる。

地上から最上部までの高さは約七メートル。柱の直径は約七十三センチある。造営文書の記録によると、柱の半分は地下に埋まっているそうで、地震などに耐える堅固な造りになっていたことが分かる。
鳥居の中央部には社格を表す「正一位中山金山彦大社」の額がかけられている。両側には一対の石灯籠と南宮道の道標がある。
それにしても、重い石の鳥居を、クレーンもない当時の技術で、どうやって組み立てたのだろう。これには逸話が残っている。土俵を高く積み上げ、その上に石材を大勢で引き上げて組み立て、終わった後、積み上げた土俵のどれかに小判が入っているとして庶民に取り崩させた、という話がある。

造営文書は、六百二十三冊が現存。建物に使用された材木一本一本の寸法、値段をはじめ神輿や神事用の楽器・衣装の詳細まで記録されており、建築史上、全国的にも貴重な資料になっている。
棟札は、棟上げや再建・修理のとき、工事の由緒や工匠の名などを記して棟木に打ち付ける札。三十枚が現存し、その中に「征夷大将軍家光造営」と書かれた札もある。これらの文書と棟札は、社殿の付属物として、国指定の文化財に登録されている。

石輪橋
楼門の前の川には、石輪橋、石平橋という二つの見事な石橋が架かっている。造営時期は社殿と同じ寛永十九年。門の正面が石輪橋。花崗岩で造られ、その名の通り輪のように円弧を描いている。この形は、そり橋とも呼ばれ、神様が通られる橋、つまり人間は通ってはいけない橋を意味している。

石平橋
その下手にあるのが石平橋。同じ花崗岩で造られているが、形はほぼ平らになっている。この橋は、石輪橋と違って、人が参拝の行き帰りにわたる橋。五月五日の例大祭で、おみこしが下向する際に渡ることから下向橋とも呼ばれる。

石鳥居
石鳥居は、旧中山道から南宮参道への入り口(垂井本町の四つ角)にある。これも寛永十九年の築造で、花崗岩を使った明神鳥居型と呼ばれる様式でできている。地上から最上部までの高さは約七メートル。柱の直径は約七十三センチある。造営文書の記録によると、柱の半分は地下に埋まっているそうで、地震などに耐える堅固な造りになっていたことが分かる。
鳥居の中央部には社格を表す「正一位中山金山彦大社」の額がかけられている。両側には一対の石灯籠と南宮道の道標がある。
それにしても、重い石の鳥居を、クレーンもない当時の技術で、どうやって組み立てたのだろう。これには逸話が残っている。土俵を高く積み上げ、その上に石材を大勢で引き上げて組み立て、終わった後、積み上げた土俵のどれかに小判が入っているとして庶民に取り崩させた、という話がある。

棟札
もうひとつ注目すべき文化財がある。それは寛永十九年に社殿などが建築された際の造営文書と棟札だ。造営文書は、六百二十三冊が現存。建物に使用された材木一本一本の寸法、値段をはじめ神輿や神事用の楽器・衣装の詳細まで記録されており、建築史上、全国的にも貴重な資料になっている。
棟札は、棟上げや再建・修理のとき、工事の由緒や工匠の名などを記して棟木に打ち付ける札。三十枚が現存し、その中に「征夷大将軍家光造営」と書かれた札もある。これらの文書と棟札は、社殿の付属物として、国指定の文化財に登録されている。